子ども虐待防止策イベント in 東京都下 2021
イベント・ディレクター 加藤クミ子と申します
初めまして。
東京都下2021イベントディレクターBlogにお越しくださいましてまことにありがとうございます。
この度、東京都下にてイベントディレクターを務めさせていただくことになりました。
イベント主催は初めてですので、至らないこともあるかと存じますが、このイベントに関わっていただく皆さまのお力をお借りしながら、みんなで成功させていきたいと存じます。どうぞよろしくお願い致します。
まず、私の自己紹介をさせていただきますね。
*両親について
世渡り下手な父親と気の強い母親は、常にマウントの取り合いでした。
父親は働いても長続きしないので、私のミルク代をタンスの中から取り出し使っていたと聞きます。
母親はそういう父に対しいつもギャンギャン言っていたように思います。
口喧嘩はもちろん、取っ組み合いの喧嘩しか見ていませんでした。
思い出すのは両親の鬼のような形相です。
気付いた時には、私のことを殴る蹴る竹刀で叩く、重箱の隅を突くように否定非難人格否定の連続でした。
弟が居たので「お姉ちゃんのくせに」、ちょっと失敗すれば、「だからお前はダメなんだ」、親の言っていることが理解できなくて質問すれば、「口答えしやがって」。
短気で説明せずにすぐに殴る蹴るでしたから、抱きしめてもらったこともありません。
食卓に着くと「早く食べろ」と何回も言われ、食事も落ち着かず早食いでかなり太りました。
プロレス好きな父親からは「プロレスに売り飛ばす」とよく言われました
「早く早く」といつも追い立てられ、私はほんとにせっかちになりました。
ウワサ好きの母親は、ご近所や親戚に「ほんとにクミ子は○○だから」とあることないこと言いふらされ、母親だけでなく誰もが自分を悪い子と思っていると思い込んでいました。
発言はすべて止められ、気に入られないと夜はよく、真っ暗な外に何時間も出されていました。誰かと面と向かう時に私はあいさつ以上の長文の話が昔から苦手でした。
私が高校生になると、両親は離婚して弟は父が親権を取り、私は母が親権を取りバラバラに生活していました。
「これで被害は2分の1になる!」と思いきや、ターゲットが私だけになりましたから、私が母親から集中攻撃を受けることになりました。
高3の進路決定の頃、なぜか「床屋になるために東京の理容専門学校に行くか、死ぬか、どちらかにしろ」といつものように命令されましたが、その時私は生まれて初めて反抗しました。
自分の将来ぐらいは自分で決めたかったから。
だけど叶わず。一旦言うことを聞く形で東京に出て、私はそこから自分のやりたい道を行くことにしました。
でもね、ことあるごとに不安になり、母親に連絡を取り判断を仰いでいる自分が居ました。
私は「?」のかたまりで、ずっとずっと乖離状態だったように思います。
両親から親戚からご近所さんから投げられた「しつけ」と称する「呪いの言葉」が、とても憎いと思っています。
心を何万回も殺されるより、体を殺してくれた方がどんなに楽かと思っていました。
*うつ病について
高校を卒業して物理的には親から離れましたが、母は常に私を支配し続けました。
結婚すると、年子で長女長男を産みましたが、長男は発達障害、そして徐々に元夫のDVやその両親のモラハラ、上の子の連れ去りに遭って、私は重度のうつ病となり、障害者手帳をもらい、母子家庭になって生活保護を受けることになりました。
長女を連れ去られた時に、母は言いました。
「娘は最初からいなかったと思え」
結局できるわけもありませんが、母と精神的にも離れようと決心。
10数年離れて、ようやく心が少しずつ落ち着いてきました。
「親が死んでも絶対に会いには行かない」と決めていました。
*現在も続く体の不調
毎日恐怖の連続で、いつの間にか体はいつも緊張状態、うつむいて過ごすので若いころレントゲンを撮った時には既にストレートネック。
現在でも朝の起きたては首から腰がガチガチに固まっていて、マッサージやストレッチを30分以上しないと動きませんし、呼吸ができないので深呼吸して声を出せるまで1時間ぐらいかかり、無理して動くと1日中調子がよくなかったりします。
小さい頃から食後に強い倦怠感と疲労感と急激な眠気があり、ナルコレプシーの一歩手前まで行き、仕事中に立っていても眠ってしまうので、仕事にならない時期もありました。
以前は三食きちんと食べていましたが、最近は朝は抜いて、ある程度快適な状態で車を運転してちゃんと会社に行けるように体調を整えるようになりました。
*母は現在
落ち着いてきた私は、数年前に両親と連絡を取るようになり、誰かがそばにいないと話が出来ませんでしたが、勇気を振り絞って聞きました。
「一緒に住んでた頃は、よく虐待していたよね」と言うと、「そうだっけ? 何があったっけ?」
説明すると「あの時は父ちゃんが○○で・・・」と相変わらず人のせいにし始めたので、気分が悪くなって聞くのをやめました。
昨年の5月に、末期のすい臓がんで命の期限を区切られていましたが、持ち直して今でもケアマネさんやご近所の人の手を借りながら、ひとりで暮らしています。
もちろん、自分がやったことは何も自覚できないまま、今に至ります。
父親も同様です。
*私が今していること
私は今、親子関係再構築の専門家として活動させていただいております。
この10数年、保育士・心理カウンセラー・発達障害についての学びを深め、資格も取ってきました。
息子が発達障害で生まれてきたので、その育てにくさのために勉強と研究をしてきました。
私が3年間重度のうつ病のために寝たきりになったことから、息子を高1まで児童養護施設に預けた時の施設内虐待が原因で、戻ってきた時には全身にあざや傷だらけ、自傷の痕も見られ、うつ状態を見せていました。
その後約10年の間、不登校からひきこもりで本人はつらい思いをしてきました。
施設内虐待で訴えても、「そのような事実はありませんでした」とされ、精神的なケアもありませんでした。
息子は当事者、私はそれを支えてきた経験から、主に不登校・ひきこもり・発達障害のお子さまを持つパパママさんに、コーチングを利用したカウンセリングで、今後の対応に関するご提案とサポートをしています。
息子はそのお子さんのケアを担当しています。
研究を深め、様々な人権問題に触れるうち、人権問題の根っこはすべて同じと気付きました。
すべては世代間でぐるぐると回っており、人がアイデンティティを確立するまでの期間に不適切な環境に置かれた時に、特性にプラスして認知のゆがみが生じ、やがてそれは生きづらさとなり、その子の一生を左右し、自殺に至る子もいれば、精神障害者として生きることも余儀なくされてしまうことも、また、犯罪を重ねてしまうこともあると理解しました。
それは本人が元から望んでいることではありません。だから、絶対に虐待はダメなんです。
何事も原因があって結果があるんですよね。
*息子は今・・・
不登校ひきこもりの約10年のうち、最初の5年は親子でバトルの繰り返しでした。
私が追い詰めることもあり、家庭内暴力暴言で毎日警察を呼ぶ、リストカットで毎日救急車を呼ぶ、の繰り返しだった時期もあります。
今は、「安心安全な場所にいるんだ」という自覚を持ち、つらかった過去に別れを告げ、自分の問題と向き合えるようになりました。
そして、「同じ思いで苦しんでいる人の役に立ちたい」と私の事業の手伝いをし、毎日ご飯を作り、洗濯をし、私の体調の心配までしてくれて、親子で穏やかな生活を過ごすことができるようになりました。
結果オーライではありますが、これから親子で虐待サバイバーとして、沢山の方の笑顔を見ることができたら、この上ないしあわせと思っております。